Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
素晴らしい講義ありがとうございました。「古代史入門」も拝読させていただきました。膨大な調査による裏付けを基として到達され構築された古代史観に感服しております。また講義を拝聴できる機会を楽しみにいたします。
ご丁寧な過分のコメントを頂戴し、誠に有難うございましたm(_ _)m小著もご購読いただいた由、重ねてお礼申し上げます。阿波の先覚「岩利大閑」氏の「道は阿波より始まる」(一)~(三)に基づいて日々精進を重ねております。徳島県内にお住まいの方でしたら、毎月第3日曜日の午後1時半~4時、徳島市立考古資料館で邪馬台国から平城遷都までをその内容として講座を開催しておりますので宜しかったらどうぞ。また、県外の方でしたら私のホームページで、考古学・古事記・阿波古代人全国進出の足跡など、分野別の写真解説、新着情報、ブログ、RUclips動画配信をご覧いただけますので宜しくお願い致します。(Google検索で「古代史塾」と入力)年明けには東京の出版社から声がかかって執筆した新刊本が発売予定ですのでこちらもご注目いただければ幸いです。力を頂いたコメントに感謝です!m(_ _)m
素晴らしい!
高評価のコメントをいただき、感謝致しますm(_ _)m平城遷都までの古代をつぶさに検討していると、通説諸学者があいまいなままにおかしな説明されていることに気付き、なお調べていくと阿波に軸をおいて考えると今まで不明だったことが明らかになることが多いので自分でもビックリです❗️今後も精進致しますのでご注目のほど宜しくお願い致します。有難うございましたm(_ _)m
通説とは、自分の説に無理くりに合わせるために用いるこじつけである🤣 素晴らしい考察です。
コメント有難うございます❗️慧眼かと存じます。私はお呼び頂いた講演会でよくお話しさせていただくことがございます。「釈然としない通説の古代史解釈は、冤罪を生む警察の見込み捜査と似ています。」つまり、都合のよいものだけを取り上げ、不都合なものは捨象するか無視するのですね。阿波に目を向けていただければ、今まで曲解されてきた解釈もすんなりと理解することが出来ると考えています。力づけられるコメントに感謝❗️ですm(_ _)m
14:30奈良県宇陀市の大野寺は慈尊院弥勒寺と称していた…《伝承では白鳳9年(681年)、役小角(役行者)によって草創され、天長元年(824年)に空海(弘法大師)が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したという。》wikiより皆さんがこのコメント欄に書かれているようにこれは決定的です。
コメントを有難うございます。小著『古代史入門』(Amazon出版本)200頁でも書かせていただきましたが、“壬申の乱” 戦いの舞台の鍵となる「大野」の地、そして「大野寺」は奈良ではあり得ず、確信を持って阿波であるといえます。ご指摘のように奈良の大野寺は681年、役小角開基とされる真言宗室生寺派の『楊柳山慈尊院大野寺』(本尊:弥勒菩薩)、一方阿波の大野寺は663年、天智天皇勅願寺の高野山真言宗の『得道山灌腸院大野寺』(本尊:大日如来)で仏教思想で最も重要な “ 山号 ” にご注目いただければ一目瞭然ではないかと思います。「得道山」、正に大皇子皇子が大津宮を辞して吉野宮への道中の「大野寺で」得度されたわけですね。また日本書紀の記述どおり、戦いに臨んで戦勝祈願をした場所「大野」でもあるのですよね。天智天皇勅願寺、これ以上壬申の乱の舞台を今に残す所は存在しません。来年令和6年3月には新著『甦る古代阿波(やまと)への旅』をまたAmazonから電子書籍と印刷本で発売予定です。又違った視点で書かせていただいておりますのでご期待ご注目いただければ幸いです。有り難いコメント感謝致します!
痛快です。阿波説を信じているから聞いていて痛快ですが、阿波説でなくとも、論理的に納得でしょうね。事実を認めるには勇気がいるとダーウィンが言いましたが、まさにそれだなあと思います。これに対抗するには、見ない、聞かない、採用しない、しかないでしょう。しかし、すごい調査です。ありがとうございます。
ご丁寧に、また過分のコメントを頂戴し誠に有難うございました!!仰るとおり、通説諸学者にとっては不都合な真実かと思います。今後、テレビ・雑誌等で壬申の乱がございましたら、是非私の説明と比べていただけると有り難いです。今後とも古代阿波の情報発信に努めますのでご注目いただけると有り難いです。
奈良九州説の学者さんからすれば、研究に費やした何十年が否定されることになるので、この内容については到底受け入れられないでしょうね。多角的に考えてこそ真の学者なのですが割と断言する方が多いので、断言した以上なかなか撤回は難しい。
@@hides5965コメント有難うございましたm(_ _)mおっしゃるとおりかと思います。諸学者の方々のご見解をお聴きしてみたく思います。そして歴史の真実が明らかになることを望みます。今後ともご注目いただけると有り難いです。
「古代史入門」読んでいます。個人的には、この壬申の乱の行程説明が、阿波に倭があった根拠の一番わかり易い説明になると思っています。しかし、神代の話をする人が多いことをある意味不思議に思っています。
そうですね✨おっしゃるとおり平城遷都まで阿波で天皇が政治を行っていたことを証明する最大最強の事実かと思います。今回前編、後編2回に渡り、満を持して主催講座でお話ししたことを公開させていただきました。これでご理解いただけるかと思いますが、あの柿本人麻呂も阿波の海人族(あまぞく)に属する生粋の阿波人で、人麻呂の詠んだ殆んどの歌は阿波の歌で、諸学者がトンチンカンな解釈をされている歌の数々は阿波で現地に立つとなるほど👀ここだったのか とご納得されるかと思います。 本来の人麻呂の詠んだ舞台を解説する本をいつか書いてみたいと考えてい。有難いコメントをいただき感謝❗️ですm(_ _)m
@@藤井栄-t6s 万葉集だけが正確に当時を伝えているはずです。「狐の帰る國」の現代版、全国の人向けに分かりやすくしたものになるものがあればいいと思ってました。期待しています!
有難うございます❗️「狐の帰る國」の著者坂東一男氏は徳島市郊外、八多の神官の家系に 属する古代史研究家で「道は阿波より始まる」の著者岩利大閑氏とともに研究された方ですが、地元の者でも少し理解しにくい本となっております。地図・カラー写真を入れたもう少し全国の方でもここが万葉集の舞台だと理解できるようなものを目指したいと思います。再度のご意見をいただき、重ねてお礼申し上げますm(_ _)m有難うございました❗️感謝です。
阿波が、古代の中心だったとは、・・・お話は説得力があります。通説の戦闘経路を見て、不自然に戦いの場が広がっているので、違和感がありました。古代の軍勢はそんなに多くなく、通説の説明するように戦場が広がるはずがない。
早速のコメント、誠に有難うございます❗️仰るとおりかと❗️私も日本書紀を読み各種書籍、雑誌の地図で説明されていることに大きな違和感があったことから調べ始めました。何より不思議なことは、ダイジェストでもご覧いただけるように、奈良、いや近畿地方と阿波で見事に同じ名前の地名、仏閣などが存在することですね✨全国の皆様がこれをご覧いただいて歴史を見直して下さることを願っています。有難うございましたm(_ _)m
阿波が古代の中心でしょうね。大倭豊秋津島がいの一番に出来たとされる日本書紀の国生み神話は当然ながら信用出来ません。古事記で淡路島が最初に出来た(ということは淡島が一番初め)と書いて、二番目に伊予之二名島が出来たと本当のことを書いてしまったので、大陸に統一国家をアピールしたい大和朝廷にとって都合が悪いので書き換えただけでしょうな。大倭豊秋津島は今でこそ蜻蛉っぽいなあと思いますが、伊能忠敬が伊能大図を完成させるまでどのような形であったか分かるはずもなく、神武天皇は何を見て蜻蛉(のとなめ)だと思ったのか。
@@hides5965コメントをいただき有難うございました。ご賢察のとおりかと思います。国生みのくだりを記紀両方読み比べられている方はそう多くはないと思います。お見立てどおりではないでしょうか。古事記でイザナギとイザナミが最初に生んだ淡路島は「淡道の穂の狭別島」と記され、本居宣長の「古事記伝」や「大日本地名辞典」に書かれているように"阿波に渡るための島"なのであって、その意味は「粟(阿波)の穂先の一部を取って造った島」と解されるのですね。つまり、国生みは四国の阿波に渡るために最初に淡路島が生み出されているのですね。ご指摘のように古事記では畿内説にとって最も大切な島であるはずの本州(大倭豊秋津島)は、ただ名だけが、しかも国生みの一番最後に挙げられているのですから。確かに国生みは十四島ですが、そのうち国分けされているのは八カ国(四国4、九州4)だけで吉備や奈良大倭は国に付属する島でしかありません。私たち阿波説では、もうこの国生み一つだけで阿波が日本の元つくにつ国であることの決定打であると考えています。この辺りのことにつきましては、小著『古代史入門』(Amazon電子書籍・印刷本)51~52ページに書かせていただいておりますので宜しかったらまた読んでみていただければ幸いです。貴重なコメントをいただき感謝致します。m(_ _)m
先日、10月12日大野寺に行きましたが、河原に菊の紋があることを知りませんでした。
早速コメントをいただき誠に有難うございます❗️固定観念を捨てて歴史の違和感あることを虚心坦懐に見ていただきますと、阿波が浮上することが多いです。殊に古代は。今後とも精進致しますのでご注目いただければ幸いですm(_ _)m
初めまして!大変勉強になりました。ありがとうございます。ただ少し分からないことがあってお聞きしたいんですが。壬申の乱が阿波で起こった事ならそれより以前の乙巳の変はどこで起こった事件なんでしょうか?教えていただければ幸いです。
コメントを頂き有難うございます。壬申の乱が阿波であったことですから、もちろん乙巳の変も阿波の出来事ですね。私たちそのように考えております。宜しければ、小著「古代史入門」(Amazon)、新刊本「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」をご一読いただければ、奈良の出来事ではないことがご理解頂けると思います。宜しくお願い致しますm(_ _)m
@@藤井栄-t6s さんありがとうございました。本をまた購入して読んでみたいと思います。
@@春夏秋冬-h9u ご丁寧に有難うございます❗️m(_ _)m2冊ともAmazonで電子書籍、印刷本どちらたでもお買い求め頂けますので宜しくお願い致します。全体的なことを申し上げれば、「古代史入門」は、邪馬台国から平城遷都までの阿波の " 通史 " 、新刊本の「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」は、古事記神話の神々は阿波の神々であり、主要神を祀る神社がみな揃っており古墳も存在することを50のテーマを設けて県内を鳴門から、県西部、県南へと巡りながら解説をしている内容で、県外の方がご一読いただければ「一度阿波へ行ってみたい❗️」と思っていただける内容になっているかと思いますので、宜しくお願い致しますm(_ _)m
@@藤井栄-t6s さんこんばんは!私は生まれも育ちも生粋の阿波っ子です。かれこれ30年前ぐらいになりますが、大杉博さんがか書かれた書物を読んで興味を持って仕事が落ち着いて時間が取れるようになったら勉強しようと思ってました。加茂宮遺跡の事を知り吉とか書かれた青銅器の印鑑の事が知りたくて三好教育委員会に電話で尋ねました。また時間ができたら三好市まで行きたいと思ってます。
@@春夏秋冬-h9u 阿波の方でしたか⁉️それでしたら私の小著2冊をお読み頂ければ、加茂野宮をはじめ古代阿波を実感していただけると思いますので宜しくお願い致します。教育委員会にも「吉」の印のことを是非訊ねてみてください。ただ、教育委員会や学芸員はなべて通説の歴史を学んでそれが正しいと思い込んでいるので、その辺りはご留意下さいませ。(私自身現職時代は県の教育委員会に3年間勤務していたので教員の頭の硬さ、固定観念に閉口致しました😆)また何かご質問がございましたらお問い合わせを頂けると有難いです。
さざ波の 志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の舟待ち兼ねつ 柿本人麿
倭徳島、大倭奈良。
早速のコメント有難うございました❗️ご賢察のとおりかと存じます。美馬市美馬町には第10代崇神天皇が建立させた延喜式内社の全国唯一社「倭大國魂神社」が鎮座し、吉野川対岸(南岸)の半田の河岸段丘には同天皇の置いた都「しきのみずがきのみや」跡があります🎵今後とも精進致しますのでご注目のほど宜しくお願い致しますm(_ _)m
どうでもいいんですが、信濃川は上流の長野県に入ると千曲川となります。国土交通省信濃川河川事務所のウェブページの記述をコピペしておきます。Q.信濃川の名前は、長野県では千曲川、新潟県では信濃川と言うのはなぜでしょうか?A.正式に長野県側を千曲川、新潟県側を信濃川としたのは、1896年(明治29年)の旧河川法制定による河川指定からですが、その川の下流部(河口)の名前を一般に使っています。 これ以前は新潟県川口町の魚野川合流点より上流を千曲川と称していましたが、当時の置県の状況を鑑みて、地域的に根付いていた信濃川、千曲川という呼称を採用したのものと推測されます。 信濃川は、古くは大きな川という意味で大川(おおかわ)と呼ばれていましたが、その後、長野県の旧称である「信濃」の国から流れてくる川として、信濃川と呼ばれるようになりました。 この「シナノ」の読みは西暦700年頃から用いられていますが、古事記や国造本紀では「科野」と書かれています。 「シナノ」の定義には、様々な説があり、「科の木が生える山国」のほか、「科」という文字が古くは急峻な地形を表す言葉として用いられてたことから、信濃川の名の由来には「山々から流れてくる」という意味が込められているものと思われます。 千曲川はその名のとおり川が千の数ほど曲がっている様子から千曲川と呼ばれるようになりましたが、千曲川の水源地域である長野県川上村の伝説によれば、大昔、高天原に住む神々の間で大きな戦いがあり、このとき流された血潮によってできた川とされており、その血潮があたり一面隈なく流れたようすから「血隈川」と言うようになった、とも伝えられています。
そうなんですか⁉️それは知りませんでした。毎年車で全国へ探訪の旅に出掛けていますが、能登半島地震の関係で昨年から足踏みしている長野、岐阜、福井、石川、富山、新潟方面へまた来年辺り出掛けたいと思っておりますので、おっしゃるような関係のことも調べてきたいと考えています。示唆をいただき感謝申し上げますm(_ _)m
全体を俯瞰して考えましょう。
@@かっちん-l3g川の歴史…その名称の歴史…全国にも興味ある川の歴史があります。おっしゃる通り俯瞰的な思考を持たない輩が横行する昨今。嘆いております。
勝手にやれば。
有難うございます❗️誰にも言われずに自分でやらせていただいておりますので。
あっ!そう ですか。阿波ではありません。阿波が好きすぎて いきすぎています。どちらにしろ 日本書紀など 記述 編纂した 忌部氏の企みです。作ったものです。作って 何百年経ったら本当ぽくなってしまいます。奈良は奈良 阿波は阿波です。
もう少しキチンとお勉強をされた方が宜しいかと思います。日本書紀は忌部が編纂したなど、基本的な理解がなされていません。
ご意見があって反論されるときはもう少し具体的に指摘して自説を述べないと、このような単なる負け惜しみのコメントになってしまいますね。
@@藤井栄-t6s さんそのまま お言葉お返ししますね。後 お聞きします。邪馬台国=阿波ばかりですが、高知 愛媛 香川を無視するのは何故ですか?阿波 徳島だけではないと思いますが、、。
@@藤井栄-t6s さんごしてきどうも。けどアレよこれよと 書いても ザ 阿波だ!としか ならないからです。あなた様は違うと思いますが、違う方はその地まで行き 自分の論をおちつけるかたがいるので!辞めときます。心広い人だと思うので!するーしてください。意見や思った事は、ちょいと 書かせてもらいますが、良しなに。
@@ミイナ-d2t無視などしていませんよ。そういう思考では歴史は理解出来ないでしょうね。もっともっと真摯に向き合うことでしょうね。コメント有難うございました。
素晴らしい講義ありがとうございました。
「古代史入門」も拝読させていただきました。
膨大な調査による裏付けを基として到達され構築された古代史観に感服しております。
また講義を拝聴できる機会を楽しみにいたします。
ご丁寧な過分のコメントを頂戴し、誠に有難うございましたm(_ _)m
小著もご購読いただいた由、重ねてお礼申し上げます。阿波の先覚「岩利大閑」氏の「道は阿波より始まる」(一)~(三)に基づいて日々精進を重ねております。
徳島県内にお住まいの方でしたら、毎月第3日曜日の午後1時半~4時、徳島市立考古資料館で邪馬台国から平城遷都までをその内容として講座を開催しておりますので宜しかったらどうぞ。
また、県外の方でしたら私のホームページで、考古学・古事記・阿波古代人全国進出の足跡など、分野別の写真解説、新着情報、ブログ、RUclips動画配信をご覧いただけますので宜しくお願い致します。(Google検索で「古代史塾」と入力)
年明けには東京の出版社から声がかかって執筆した新刊本が発売予定ですのでこちらもご注目いただければ幸いです。
力を頂いたコメントに感謝です!m(_ _)m
素晴らしい!
高評価のコメントをいただき、感謝致しますm(_ _)m
平城遷都までの古代をつぶさに検討していると、通説諸学者があいまいなままにおかしな説明されていることに気付き、なお調べていくと阿波
に軸をおいて考えると今まで不明だったことが明らかになることが多いので自分でもビックリです❗️
今後も精進致しますのでご注目のほど宜しくお願い致します。有難うございましたm(_ _)m
通説とは、自分の説に無理くりに合わせるために用いるこじつけである🤣 素晴らしい考察です。
コメント有難うございます❗️
慧眼かと存じます。
私はお呼び頂いた講演会でよくお話しさせていただくことがございます。
「釈然としない通説の古代史解釈は、冤罪を生む警察の見込み捜査と似ています。」
つまり、都合のよいものだけを取り上げ、不都合なものは捨象するか無視するのですね。
阿波に目を向けていただければ、今まで曲解されてきた解釈もすんなりと理解することが出来ると考えています。
力づけられるコメントに感謝❗️ですm(_ _)m
14:30
奈良県宇陀市の大野寺は慈尊院弥勒寺と称していた…
《伝承では白鳳9年(681年)、役小角(役行者)によって草創され、天長元年(824年)に空海(弘法大師)が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したという。》wikiより
皆さんがこのコメント欄に書かれているようにこれは決定的です。
コメントを有難うございます。小著『古代史入門』(Amazon出版本)200頁でも書かせていただきましたが、“壬申の乱” 戦いの舞台の鍵となる「大野」の地、そして「大野寺」は奈良ではあり得ず、確信を持って阿波であるといえます。
ご指摘のように奈良の大野寺は681年、役小角開基とされる真言宗室生寺派の『楊柳山慈尊院大野寺』(本尊:弥勒菩薩)、一方阿波の大野寺は663年、天智天皇勅願寺の高野山真言宗の『得道山灌腸院大野寺』(本尊:大日如来)で仏教思想で最も重要な “ 山号 ” にご注目いただければ一目瞭然ではないかと思います。
「得道山」、正に大皇子皇子が大津宮を辞して吉野宮への道中の「大野寺で」得度されたわけですね。また日本書紀の記述どおり、戦いに臨んで戦勝祈願をした場所「大野」でもあるのですよね。天智天皇勅願寺、これ以上壬申の乱の舞台を今に残す所は存在しません。
来年令和6年3月には新著『甦る古代阿波(やまと)への旅』をまたAmazonから電子書籍と印刷本で発売予定です。又違った視点で書かせていただいておりますのでご期待ご注目いただければ幸いです。有り難いコメント感謝致します!
痛快です。阿波説を信じているから聞いていて痛快ですが、阿波説でなくとも、論理的に納得でしょうね。事実を認めるには勇気がいるとダーウィンが言いましたが、まさにそれだなあと思います。これに対抗するには、見ない、聞かない、採用しない、しかないでしょう。しかし、すごい調査です。ありがとうございます。
ご丁寧に、また過分のコメントを頂戴し誠に有難うございました!!
仰るとおり、通説諸学者にとっては不都合な真実かと思います。
今後、テレビ・雑誌等で壬申の乱がございましたら、是非私の説明と比べていただけると有り難いです。今後とも古代阿波の情報発信に努めますのでご注目いただけると有り難いです。
奈良九州説の学者さんからすれば、研究に費やした何十年が否定されることになるので、この内容については到底受け入れられないでしょうね。
多角的に考えてこそ真の学者なのですが割と断言する方が多いので、断言した以上なかなか撤回は難しい。
@@hides5965コメント有難うございましたm(_ _)m
おっしゃるとおりかと思います。諸学者の方々のご見解をお聴きしてみたく思います。そして歴史の真実が明らかになることを望みます。今後ともご注目いただけると有り難いです。
「古代史入門」読んでいます。
個人的には、この壬申の乱の行程説明が、阿波に倭があった根拠の一番わかり易い説明になると思っています。
しかし、神代の話をする人が多いことをある意味不思議に思っています。
そうですね✨おっしゃるとおり平城遷都まで阿波で天皇が政治を行っていたことを証明する最大最強の事実かと思います。
今回前編、後編2回に渡り、満を持して主催講座でお話ししたことを公開させていただきました。
これでご理解いただけるかと思いますが、あの柿本人麻呂も阿波の海人族(あまぞく)に属する生粋の阿波人で、人麻呂の詠んだ殆んどの歌は阿波の歌で、諸学者がトンチンカンな解釈をされている歌の数々は阿波で現地に立つとなるほど👀ここだったのか とご納得されるかと思います。
本来の人麻呂の詠んだ舞台を解説する本をいつか書いてみたいと考えてい。
有難いコメントをいただき感謝❗️ですm(_ _)m
@@藤井栄-t6s
万葉集だけが正確に当時を伝えているはずです。
「狐の帰る國」の現代版、全国の人向けに分かりやすくしたものになるものがあればいいと思ってました。
期待しています!
有難うございます❗️
「狐の帰る國」の著者坂東一男氏は徳島市郊外、八多の神官の家系に 属する古代史研究家で「道は阿波より始まる」の著者岩利大閑氏とともに研究された方ですが、地元の者でも少し理解しにくい本となっております。
地図・カラー写真を入れたもう少し全国の方でもここが万葉集の舞台だと理解できるようなものを目指したいと思います。再度のご意見をいただき、重ねてお礼申し上げますm(_ _)m有難うございました❗️感謝です。
阿波が、古代の中心だったとは、・・・お話は説得力があります。
通説の戦闘経路を見て、不自然に戦いの場が広がっているので、違和感がありました。
古代の軍勢はそんなに多くなく、通説の説明するように戦場が広がるはずがない。
早速のコメント、誠に有難うございます❗️
仰るとおりかと❗️
私も日本書紀を読み各種書籍、雑誌の地図で説明されていることに大きな違和感があったことから調べ始めました。
何より不思議なことは、ダイジェストでもご覧いただけるように、奈良、いや近畿地方と阿波で見事に同じ名前の地名、仏閣などが存在することですね✨
全国の皆様がこれをご覧いただいて歴史を見直して下さることを願っています。有難うございましたm(_ _)m
阿波が古代の中心でしょうね。
大倭豊秋津島がいの一番に出来たとされる日本書紀の国生み神話は当然ながら信用出来ません。
古事記で淡路島が最初に出来た(ということは淡島が一番初め)と書いて、二番目に伊予之二名島が出来たと本当のことを書いてしまったので、大陸に統一国家をアピールしたい大和朝廷にとって都合が悪いので書き換えただけでしょうな。
大倭豊秋津島は今でこそ蜻蛉っぽいなあと思いますが、伊能忠敬が伊能大図を完成させるまでどのような形であったか分かるはずもなく、神武天皇は何を見て蜻蛉(のとなめ)だと思ったのか。
@@hides5965コメントをいただき有難うございました。
ご賢察のとおりかと思います。国生みのくだりを記紀両方読み比べられている方はそう多くはないと思います。お見立てどおりではないでしょうか。
古事記でイザナギとイザナミが最初に生んだ淡路島は「淡道の穂の狭別島」と記され、本居宣長の「古事記伝」や「大日本地名辞典」に書かれているように"阿波に渡るための島"なのであって、その意味は「粟(阿波)の穂先の一部を取って造った島」と解されるのですね。
つまり、国生みは四国の阿波に渡るために最初に淡路島が生み出されているのですね。
ご指摘のように古事記では畿内説にとって最も大切な島であるはずの本州(大倭豊秋津島)は、ただ名だけが、しかも国生みの一番最後に挙げられているのですから。
確かに国生みは十四島ですが、そのうち国分けされているのは八カ国(四国4、九州4)だけで吉備や奈良大倭は国に付属する島でしかありません。私たち阿波説では、もうこの国生み一つだけで阿波が日本の元つくにつ国であることの決定打であると考えています。
この辺りのことにつきましては、小著『古代史入門』(Amazon電子書籍・印刷本)51~52ページに書かせていただいておりますので宜しかったらまた読んでみていただければ幸いです。
貴重なコメントをいただき感謝致します。m(_ _)m
先日、10月12日大野寺に行きましたが、河原に菊の紋があることを知りませんでした。
早速コメントをいただき誠に有難うございます❗️
固定観念を捨てて歴史の違和感あることを虚心坦懐に見ていただきますと、阿波が浮上することが多いです。
殊に古代は。
今後とも精進致しますのでご注目いただければ幸いですm(_ _)m
初めまして!
大変勉強になりました。
ありがとうございます。
ただ少し分からないことがあってお聞きしたいんですが。
壬申の乱が阿波で起こった事ならそれより以前の乙巳の変はどこで起こった事件なんでしょうか?
教えていただければ幸いです。
コメントを頂き有難うございます。
壬申の乱が阿波であったことですから、もちろん乙巳の変も阿波の出来事ですね。
私たちそのように考えております。
宜しければ、小著「古代史入門」(Amazon)、新刊本「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」をご一読いただければ、奈良の出来事ではないことがご理解頂けると思います。
宜しくお願い致しますm(_ _)m
@@藤井栄-t6s さんありがとうございました。
本をまた購入して読んでみたいと思います。
@@春夏秋冬-h9u ご丁寧に有難うございます❗️m(_ _)m
2冊ともAmazonで電子書籍、印刷本どちらたでもお買い求め頂けますので宜しくお願い致します。
全体的なことを申し上げれば、
「古代史入門」は、邪馬台国から平城遷都までの阿波の " 通史 " 、
新刊本の「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」は、古事記神話の神々は阿波の神々であり、主要神を祀る神社がみな揃っており
古墳も存在することを50のテーマを設けて県内を鳴門から、県西部、県南へと巡りながら解説をしている内容で、県外の方がご一読いただければ「一度阿波へ行ってみたい❗️」と思っていただける内容になっているかと思いますので、宜しくお願い致しますm(_ _)m
@@藤井栄-t6s さんこんばんは!
私は生まれも育ちも生粋の阿波っ子です。
かれこれ30年前ぐらいになりますが、大杉博さんがか書かれた書物を読んで興味を持って仕事が落ち着いて時間が取れるようになったら勉強しようと思ってました。
加茂宮遺跡の事を知り吉とか書かれた青銅器の印鑑の事が知りたくて三好教育委員会に電話で尋ねました。また時間ができたら三好市まで行きたいと思ってます。
@@春夏秋冬-h9u 阿波の方でしたか⁉️
それでしたら私の小著2冊をお読み頂ければ、加茂野宮をはじめ古代阿波を実感していただけると思いますので宜しくお願い致します。
教育委員会にも「吉」の印のことを是非訊ねてみてください。ただ、教育委員会や学芸員はなべて通説の歴史を学んでそれが正しいと思い込んでいるので、その辺りはご留意下さいませ。(私自身現職時代は県の教育委員会に3年間勤務していたので教員の頭の硬さ、固定観念に閉口致しました😆)
また何かご質問がございましたらお問い合わせを頂けると有難いです。
さざ波の 志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の舟待ち兼ねつ 柿本人麿
倭徳島、大倭奈良。
早速のコメント有難うございました❗️
ご賢察のとおりかと存じます。
美馬市美馬町には第10代崇神天皇が建立させた延喜式内社の全国唯一社「倭大國魂神社」が鎮座し、吉野川対岸(南岸)の半田の河岸段丘には同天皇の置いた都「しきのみずがきのみや」跡があります🎵
今後とも精進致しますのでご注目のほど宜しくお願い致しますm(_ _)m
どうでもいいんですが、信濃川は上流の長野県に入ると千曲川となります。国土交通省信濃川河川事務所のウェブページの記述をコピペしておきます。
Q.信濃川の名前は、長野県では千曲川、新潟県では信濃川と言うのはなぜでしょうか?
A.正式に長野県側を千曲川、新潟県側を信濃川としたのは、1896年(明治29年)の旧河川法制定による河川指定からですが、その川の下流部(河口)の名前を一般に使っています。
これ以前は新潟県川口町の魚野川合流点より上流を千曲川と称していましたが、当時の置県の状況を鑑みて、地域的に根付いていた信濃川、千曲川という呼称を採用したのものと推測されます。
信濃川は、古くは大きな川という意味で大川(おおかわ)と呼ばれていましたが、その後、長野県の旧称である「信濃」の国から流れてくる川として、信濃川と呼ばれるようになりました。
この「シナノ」の読みは西暦700年頃から用いられていますが、古事記や国造本紀では「科野」と書かれています。
「シナノ」の定義には、様々な説があり、「科の木が生える山国」のほか、「科」という文字が古くは急峻な地形を表す言葉として用いられてたことから、信濃川の名の由来には「山々から流れてくる」という意味が込められているものと思われます。
千曲川はその名のとおり川が千の数ほど曲がっている様子から千曲川と呼ばれるようになりましたが、千曲川の水源地域である長野県川上村の伝説によれば、大昔、高天原に住む神々の間で大きな戦いがあり、このとき流された血潮によってできた川とされており、その血潮があたり一面隈なく流れたようすから「血隈川」と言うようになった、とも伝えられています。
そうなんですか⁉️
それは知りませんでした。毎年車で全国へ探訪の旅に出掛けていますが、能登半島地震の関係で昨年から足踏みしている長野、岐阜、福井、石川、富山、新潟方面へまた来年辺り出掛けたいと思っておりますので、おっしゃるような関係のことも調べてきたいと考えています。
示唆をいただき感謝申し上げますm(_ _)m
全体を俯瞰して考えましょう。
@@かっちん-l3g
川の歴史…
その名称の歴史…
全国にも興味ある川の歴史があります。
おっしゃる通り俯瞰的な思考を持たない輩が横行する昨今。
嘆いております。
勝手にやれば。
有難うございます❗️
誰にも言われずに自分でやらせていただいておりますので。
あっ!そう ですか。
阿波ではありません。
阿波が好きすぎて いきすぎています。
どちらにしろ 日本書紀など 記述 編纂した 忌部氏の企みです。作ったものです。作って 何百年経ったら本当ぽくなってしまいます。
奈良は奈良 阿波は阿波です。
もう少しキチンとお勉強をされた方が宜しいかと思います。
日本書紀は忌部が編纂したなど、基本的な理解がなされていません。
ご意見があって反論されるときはもう少し具体的に指摘して自説を述べないと、このような単なる負け惜しみのコメントになってしまいますね。
@@藤井栄-t6s さん
そのまま お言葉お返ししますね。
後 お聞きします。邪馬台国=阿波ばかりですが、高知 愛媛 香川を無視するのは何故ですか?
阿波 徳島だけではないと思いますが、、。
@@藤井栄-t6s さん
ごしてきどうも。けどアレよこれよと 書いても ザ 阿波だ!としか ならないからです。
あなた様は違うと思いますが、違う方はその地まで行き 自分の論をおちつけるかたがいるので!辞めときます。心広い人だと思うので!するーしてください。意見や思った事は、ちょいと 書かせてもらいますが、良しなに。
@@ミイナ-d2t無視などしていませんよ。そういう思考では歴史は理解出来ないでしょうね。もっともっと真摯に向き合うことでしょうね。コメント有難うございました。